りんご嫌いの、ひねた子

とりわけ重要な象徴のひとつ
りんごが悪魔の実なんて、と彼は言った。それほどおいしくもないじゃないか、あんなものと。僕はべつにりんごの肩を持つわけではないけれど、きらいでもないし、どちらかと言えばりんごはおいしいと思っていたからなにも言わなかった。


彼の家はキリスト教を信奉していた、彼の言葉をかりるなら、熱狂的に。ご存知だと思うが、と彼はここだけ妙に気をつかって注釈を入れる。『キリスト教の人にとってりんごというのは堕落の象徴のひとつだ。あの宗教には堕落の象徴がいくつもあるけど、りんごはその中でもとりわけ重要な象徴のひとつだ。あれを食べたせいでアダムとイヴは楽園を追放させられて、人類は原罪を背負うことになったんだから。』


りんごの出ない食卓
だから彼の家でりんごはこれまで一度もでたことはないし、彼が言うには「これからも絶対に出ることはない」。僕はその話を聴いて、キリスト教徒とはそういうものなのだろうか、と疑問におもった。僕はいままで熱心なキリスト教徒と話したことがなかったが、彼の家庭はすこし特殊なケースな気がした。なんだって今更りんごを禁止されなくちゃいけないんだ、もう原罪はとっくに背負ってるんだ、と開きなおるほうが生身の人間として想像しやすい。


そのような事情で彼は、13歳の時までりんごを食べずに育った。その頃の彼にとってその赤い果物はさまざまなフィルタを通して、親の思いとは裏腹に、というよりも親の思いゆえの裏腹に、りんごは神格化されていたようだ。『夏祭りでテカテカに光ってるりんご飴なんて見た日には驚いたよ、あれがりんごなんだとおもって悪魔の実とされるのもむべなるかな、とおもった』と彼は冗談めかして言った。僕は笑った。彼はつづける。


こっそりとりんごを食べる少年を想像する
『そして結局、13歳の時に、親や世間の目をぬすんでりんごを買って食べた。まわりがこっそりと万引きだったり喫煙だったりをしてる間に、俺がやったことはりんごを食べることだった。すこし離れたスーパーに行ってりんごが並んでいる店の前に行き、とびきり赤いものをえらんだ。それをスーパーの裏手の公園でかじって食べた。そのころには情報を総合するとりんごはかじって食べるものだという観念ができていたんだろうね。』


『そうしたらまあなんてことはない、ひとつのくだものだった。すこし腹がたって、悲しくなった。こんなただの果実のためにいろいろとなやんだのか、って。大学に入って親元を離れると、どうしてだかりんごを食べなきゃいけないような気がして、毎日食べた。一日二個はかならず食べて、平均して一日四個は食べた。このことから俺が確実に言えるのは、親はもしもキリスト教を狂信しているとしても、子どもにりんごを禁止するべきじゃないってことだよ。りんご嫌いの、ひねた子どもになってしまう。』


彼は話し終える
以上のことを、彼は話した。そして彼は、自分がひねた人間であることを誇りであるという風情で、にっこりと笑った。僕はそんな彼が嫌いではない。僕はいまの彼も悪くないよ、とおもう。そんな僕が彼の話を聴いて、確実に言えることは、これだった。


もしもスーパーの生鮮売場でこそこそとりんごを買っている中学生がいたら、あたたかい目で見守ってあげるべきだ。そうして彼、あるいは彼女が、どうかりんごを嫌いになりませんようにと祈ろう。そのとき、あなたがなにを信じているにせよ。