がんばらないでいい、という思想

以前は「がんばりすぎないようにね」「がんばらなくていいよ」と人に言われても気にしなかった。最近はその言葉を聴くと、すこしつらくなるのを感じる。たぶん、自分が狭量になったんだ、と思う。

がんばらなくていいよ、という言葉で楽になれない。人に「がんばらなくていい」と言われると「いや、頑張るよ」と自分の中で確認し、「いや、頑張るよ」と口に出す。そういう僕を煙たがる人もいる。それでも僕は「いや、頑張るよ」と言う。これは自分にとっては重大な問題なんだ、と。

僕はむかしどこかで聴いたことのある話を思い出す。それは、こんな話だ。


君は、自分の余生を想像する。体調が悪くなり、ずっと病院のベッドで暮らすようになった自分を想像する。とても調子が悪い。目を開けるのもつらいし、隣の病室から耳に入ってくる声は耳障りでしかない。

君には手術が必要だ。

君の近くには医師がいる。自分の手術を引き受けた医師。なぜか部屋は暗い。そのせいで最初は姿が見えない。医師の声だけ聴くと、とても親切な印象を感じ取ることができる。

やがて医師の姿が見えて、その医師は自分だということに気付く。自分のうつしみだ。そして自分とおなじ考え、信念を持っている。

もしも君が『どうせ仕事だ』と思って生きているとすると、医師は「どうせ仕事だ」と思っていることが分かる。しかし、どんな医師でも「安心してください。私のことはよく知っているでしょう?」と言う。ときに皮肉に、ときに誠実に。




僕の医師は「どうせ仕事だ」と思っている人だろうか、「とりあえずなにか起こったらごまかそう」と思っている人だろうか。僕はその医師が、「やるからには最善を尽くそう。そのための努力はすでにした。目的のためなら多少の無茶はしよう。」という人であってほしい。

僕はそういう医師が、自分の近くにいてくれるといいなあと想像して、「いや、頑張るよ」と口に出す。