手紙

わたしが生きている間に、あなたがこの手紙を読んでいるということはないでしょう。だからわたしはもう、その世界にはいないのでしょうね。あまり苦しまずに死んだのならいいなあ、と思います。とは言え、今までの人生で苦しむことが少なかったので、死ぬ時まで苦しくなかったらそれはそれで悲しいと思ってしまいます。あなたと一緒に生活ができて、わたしは幸せだったと思います。

出鼻から話がねじれてしまってどうしようもないですね。ではこの手紙のことについて。あなたがまず一番知りたいだろうことを当てましょう。「なぜこのような手紙を書いていたのか」、そうでしょう?だけどそれは複雑な要素がからみすぎていて、一言であらわすことができません。一言で伝えようとすると、わたしの言いたいことが間違って受け取られてしまうでしょう。それは悲しいことだし、なによりもわたしの ― 今この文章を書いているわたしの気持ちの整理のためにも、ゆっくりと文章を読み進めていってください。
あなたはわたしの中でスーパーマンでした。あなたは、自分で決めたルールを守れる数少ない人間でした。もしも水曜日の夜であれば、好きなタレントが目の前で裸になっていても、あなたは腹筋100回を3セットはじめるでしょう。あなたの目の前で誰かが吐き始めたら、社長であっても引きずって店の外に連れ出し、さっさと家に帰らせたでしょう。

そして基本的にあなたはそのルールをわたしに話してくれました。あなたの立場が悪くなるルールでも、世間話のようにわたしに打ち明けてくれました。たとえばあなたは仕事場にいるとき、5日に1度、自慰行為をしていました。そうですよね?


だけど、あなたはわたしに伝えていない、すこし特別なルールを持っていたはずです。このルールをわたしに一度も伝えなかったことは、あなたのルールに反さないでしょう。だってあなたは一度も「自分のルールを妻に話す」と口にしていませんから。あなたはフェアです。わたしが勝手に、「夫は自分のルールをすべて話してくれる」と解釈していたとしても、あなたに落ち度はありません。誰にも非難されない、騎士道精神にのっとった行為です。


あなたがわたしに伝えていなかった(おそらく唯一の)ルールはこうでしょう?「状況と逆の発言をする」。会社でなにかいいことがあったら、わたしには「今日は散々だったよ」と言い、何か失敗するようなことがあれば「今日はひさびさにみんなから拍手をもらったよ」と言っていたはずです。

それがなぜかはわかりません。なにせ面と向かって訊ねるにはあまりに個人的すぎるし、それがあなたにとってとても大きな混乱の種になることがわかるからです。もしかしたらあなたはこの話がきっかけで、あなたの決めたルールを破ってしまうかもしれません。それは結果的にわたしを傷つけます。

そのルールに気が付くきっかけは、あなたが酔っ払って帰り、「仕事がうまくいっていない」と愚痴を言って眠った日に、あなたの部下が電話をくれたからでした。


内容は酔っ払ったあなたが、飲み会の席で傘を忘れたかもしれないという連絡でした。あなたは眠ってしまっていたし、せっかく嫌なことも忘れているのだから、起こすこともないと思い、起こしませんでした。また後日、お店に確認すればいいだけです。

そしてそのことをあなたの部下に伝えました。あなたの部下は脳天気に「そうですか、じゃあ部長におめでとうございます、とお伝え下さい」と明るく言い、電話を切りました。


「おめでとうございます」なんて、仕事がうまくいってない人間に掛ける言葉ではありません。わたしは気になって、数日悩んだあとに、着信履歴をもとに、あなたの部下に連絡を取りました。「先日、主人がお酒を飲んで帰ってきた日、何かめでたいことでもありましたでしょうか?」と聴くと、彼はすこし訝しげに「昇進の件、まだご存知でないんですか」と訊き返してきました。そのときは状況をつかむことさえできなかったので、「また連絡いたします」と言い、電話を切りました。


その一件からあなたを注意深く見ていると、時間が経つに連れ、不自然なことが分かっていきました。あなたはどういう理屈かはしらないけれど、嬉しい時に愚痴を言って、自分を傷つけている。逆に、なにか悪いことが起こったときは、まるで埋蔵金を見つけたように喜ぶことで、自分を傷つけました。もちろんそのときの電話と、わたしの観察眼だけでそこまで分かったわけではありません。ときどきあなたの部下と連絡をとるようにして、あなたの矛盾した(ように思える)行動を発見したのです。


わたしにとって、あなたの部下と連絡をとることは、情報を手に入れる一方で、「わたしにルールを伝えてくれなかった」ことに対するあなたへの復讐でした。もちろんそれは見当はずれです。さきほど書いたように、あなたは何もルールを破っていない。ただわたしがわたしのルールをあなたに押し付けていたのです。一方的に金を貸して、そのお金を庭の目の届かない場所に埋め、お金を返せと言っていたのです。

復讐、と言ってしまうと、まるで自分を正当化しているようですね。実際には、それは少女がおまじないを唱えているようなものでした。とにかく何かに頼らなければ、わたしは立っていられませんでした。わたしが依って立つものは「あなたのルール」という分厚い壁であって、それが急に崩れたように思えたのです。わたしはその部下と頻繁に会うようになり、結果的に不貞をはたらきました。


わたしは不貞をはたらいた日、とても後悔していたし、怯えていました。もしもあなたが知ってしまったらどう思うだろう、という自己中心的な恐怖でした。しかしその恐怖は長く続きませんでした。なぜなら、そのあと数日のあなたはこれまでにないほど愚痴を言い、気持ちいいくらいの罵詈雑言をまき散らして寝てしまっていたからです。わたしはとても安堵しました。あなたにとって、さぞかしいいことが起こっているのだ、と思いました。事実、あなたの部下は、あなたが同年代の中では飛び抜けて出世をし、将来を約束された場所にいることを、わたしに伝えました。

そのあと数カ月して、あなたの部下はどこかに転勤して連絡も途絶えました。彼が転勤したことを、あなたは「優秀だったから反対はしたんだがなあ」と付け加えて、伝えてくれました。あなたの社内での情報がまた無くなりましたが、すでにどうでもいいことでした。あなたが腹立たしそうにしていると、実際にはいいことが起こっており、あなたが喜んでいれば、なにか良くないことが起こっているのです。それは安定した生活でした。わたしはそのなかでアライグマのように生きることができました。


あなたが先日解雇されて、あなたがそれほど上の地位にいないことを知りました。将来を約束されていたあなたが、なぜ解雇されたのでしょう。それほど会社自体の運営が危うかったのでしょうか。しかしそのような噂は聞こえてきません。

あなたは本当に出世争いに勝っていたのでしょうか。あなたの部下は、本当に最後までわたしに本当のことを伝えていたのでしょうか。あなたの部下は、本当に会社の意向で転勤させられたのでしょうか。あなたは本当に彼の転勤に反対したのでしょうか。あなたはあの数日間、本当にいいことがあって、愚痴を言っていたのでしょうか。


いま横で眠っているあなたを起こして、聴くことは簡単です。だけどそれは本意ではありません。さきほど書いたように、あなたを混乱させたくないのです。
この手紙を読んで、あなたは混乱するかもしれません。だけどそのとき、あなたの混乱は、あなたのものです。あなたが自分で自分を傷つける必要もないのです。

わたしはこの手紙を書いたこと、この手紙をあなたがいずれ読むかもしれないことを支えに、またアライグマのように生きます。あなたもこの手紙を読んで、アライグマのように生きてほしいと願っています。それでは、お元気で。