自分の意思で動かなくなる時計

-彼が嫌な人間だなあと言うと、彼女はうん知ってると言う
『ねえ本当にいま生きているのは君がいたからだよ、と言われた。なにがあったのかはおぼえてない。なにがあったんだろうと訊くが答えはかえってこない。俺はいやな人間だなあと言うと、彼女はうん知ってると言った。』これが彼の言いたかったことの全てだ。そしてここからはじまるのは、彼が以上のことを伝えるまでの話だ。
-一日ごとに30秒ずつ遅れる時計
彼はすこしだけうれしそうに話をはじめる。そういうときの彼は自虐を楽しんでおり、露悪で罪を贖えると信じているように見える。彼は厭世主義で、どちらかというと変わり者だった。それは一日ごとに30秒ずつ遅れる時計に似ていた。穏やかだけど、確実にまわりの世界と離れていく。

その話を聴いたのは居酒屋というには非大衆的であり、バーと言うにはすこし大仰な店の個室の中だった。彼はピスタチオをつまむ。僕はビールを飲む。部屋の中に間接照明は置いてあるが、手元がすこし暗いなあと思う。彼はいつもどおりビールは飲めないからと言って、すこし甘いカクテルを飲む。僕は話を聴いているか聴いていないか分からない程度の態度をとる。彼は僕にそういう態度をとってほしいから、わざわざ僕を呼んだのだ。そして彼は僕のその様子をみて、すこし安心したように話しはじめる。

-彼の奇妙な観念
彼女とは大学にいた頃、いつの間にか、たまに話すようになっていて、なにかの折に、一緒のグループになったのをきっかけに、よく話すようになった。そのとき彼女には一緒に暮らしている男性がいて、俺にもつきあっている人がいたりいなかったりした。二人とも恋愛のはなしはしない。学生時代の俺たちは自分たちの恋愛は自分たちで解決できるものだとおもっていたし、そうであることが望ましいという考えがあった。さらに自分の口から自分のことを話すことはあさましいことだ、という奇妙な観念も加わっていた。そういうわけで互いのパーソナルな部分には触れずに過ごした。

それでも一緒に話をすることはたのしいことだった。それにその会話に意味を見つけることは、一人で本を読むよりも簡単だったのでよく話をした。彼女は公園が好きで、俺は太陽が好きだったので、午前中の公園で会ってよく話した。

-夜の公園でいつもどおりの話をつづける
卒業前にめずらしく、夜の公園で会うことになった。とくに取り決めはなかったけど、夜の公園で彼女とはなすのは不適当な気がした。それでも理由もないのにいやだとは言えない。それに卒業したあと、彼女は地元である九州にかえり、俺はここに残ることになっていた。なかなか遠い距離だ。そういうわけで、もちろん夜の公園に行った。

会って話そうとするといきなり彼女は、俺のことを好きだといった。その言葉を茶化す俺に対して、『友人としてではなく』と付け加える。『付き合ってる人がいるけれど』、とも付け加えた。はじめて恋愛のことを話したと思ったら、その内容かとおもった。俺はありがとうと言って、そのあと二人でずいぶんながい時間、いつもどおりのはなしをつづけた気がする。

-彼にとっての好ましい関係
彼女は卒業してからも年に何度か会った。半日かかる距離をこえて会いに来た。そして意外に思われるかもしれないけど、俺も会いに行った、新幹線でね。そしてある日、彼氏と別れたと告げられた。そうかとこたえた。やれやれとおもったよ。やれやれ二度目の恋愛に関するはなしがそれかってね。
それでも変わらずに話をして、変わらずに年に何度か会った。とくに何も変わらなかった。彼女が東京タワーに登りたいというと、つまらないからと俺が断り、俺が美術館に行きたいというと、話せないからと彼女は断る。それは俺にとって気持ちのいいもので、好ましいものだった。

-涙の音はそれほどおおきくないと彼は言う
この前彼女から電話が掛かってきた。つきあってほしい、もしも可能性がないなら、こっぴどくふってほしいと言われた。俺は言葉を選んで、可能性はないとおもう、俺は自分がそんなに人間に興味がある人間ではないと分かった、つきあうとしたら自分のことが好きでない人を選ぶと思う、それでもあなたと話をしてたのしいと思うからいなくなるのであれば寂しいと伝えた。だけど、なにも反応がない。だから俺は、きらいに思われるのもすこしつらいかもしれない、と付け加えた。

すると彼女は『そんなことで嫌いにならない』と言った。『そんなことで嫌いにならない、そんなものじゃない。ねえ本当にいま私が生きているのは君がいたからだよ』、と。俺は混乱した。なにもしてあげれたことなんてなかったから。俺はなにかしたのだろうかと訊いても、彼女は『すこし泣く』と言ってなにも答えない。電話から泣いているかどうかは、わからなかった。涙の音はそれほどおおきくない。

-熱心に聴いていないことを示せる種類のあいづち
実際にはすこしこまかな説明があり、もっとこまかな仕草や視線の動きが間にはさまったが、彼はそこまで独りで話した。ずいぶんと時間がかかった。彼のカクテルが入ったグラスの汗は、すでに揮発していた。僕はグラスの汗がなくなるまでの間ずっと、話を聴いているのか聴いていないのかわからない態度をつづけた。ときおり、彼の話を熱心に聴いていないことを示せる種類のあいづちを打った。会話とは、言葉と仕草が合わさらなければ伝わらない繊細なものなのだ、と再確認する。

-僕は動かなくなる時計を想像する
僕は『それで』と言う。無愛想に、形式的に、否定的に、言う。彼はそれをすこし喜んだ風に、『うん』と疑問形で訊く。その調子だぞ、と言うような肯定的な調子で訊いてくる。僕は期待に応え、無機的に『それで電話が切れたわけじゃないだろ』と訊く。彼はもちろんと言い、それでねとつづけた。

俺はいやな人間だなあと言うと、彼女はうん知ってると言った。そしてまたすこしの時間、はなしをした。それきり連絡はない。こちらからも連絡していない。


そうなんだ、と僕は確認するために言い、そうなんだ、と彼が確認のために言う。
彼はその話を終えて、ずいぶんと疲れているように見えた。1日30秒ずつ遅れる時計が、いつか自分の存在意義になやまなければいいけれど、と僕は心配する。なんといってもその時計は、自分の意思で動かなくなることもできるのだ。