可能性のない世界で橋の上を歩くこと

それなりに頑丈な、世界ができたときからあるような構造物
その橋の上を歩いていると、川に飛び込んでしまう気がした。その橋は通路がせまかったが、子どもが二人並んで歩くくらいにはなんともなかった。なにかのバラエティ番組に出てくるほど古びているわけでなく、とくに高所にあるわけでもない。

打ちっぱなしのコンクリートで作られたその橋は、世界ができたときからあったような顔をして川の上をとおっていた。その両脇に高さ40cmくらいの錆びた何かがあった。手すりだった。あまりに低すぎて、手すりとして機能しているところは見たことがないが、それなりに頑丈な構造物にみえた。それでも小学校を卒業するまでそこを渡るときは常におそるおそる渡った。
だいちゃんという3歳年上の子は、「なんでわたれないんだ」といった。「こんなの目をつぶっても歩ける、だれも落としはしない、二人が並んで歩けるんだから一人で落ちるはずがないじゃないか」。わかってない、と僕は思った。
「誰も落としはしない、だから、落ちるときは自分から落ちてしまうんだ。そういう恐怖があるんだ、落ちるしかない時があるはずなんだ。」
そう思った。それは確信だった。

自分を信用していなかったわけでもないが、自分が背のひくい手すり(のようなもの)を乗り越え、そのまま川に落ちていく映像が頭に浮かんだ。それは細部が異なった形式で繰り返される。その映像は、手ごたえがある想像だった。

中学生になってもその想像は続いていたが橋を渡ることはできた。そのときはこう考えていた、「そりゃ落ちることもあるかもしれない、でもそれはとても起こりにくいことなんだ」。それに体も大きくなり落ちてもなんとかなるさとおもった。

可能性のない世界
今になって考えてみれば、小さいころはあらゆる可能性が等しく僕のなかに存在していた。太陽が落ちて死ぬことも、突然からだが動かなくなってそのまま死んでいくことも、交通事故で死ぬことも、橋から自分が落ちて行くことも、ぜんぶ一緒にあった。それは、可能性がない世界だった。すべてが等しく存在する世界では、可能性なんて言葉は意味をもたなかった。

すこし年を重ねて、可能性というものに気づいたとき、僕はふしぎな気持ちになったような気がする。そしてそのあと、いくぶん背伸びをして、懐疑的な目で世界を見始めた。僕にとって、可能性という言葉は、希望よりもあきらめに近い意味を持つ。そしてたまに実家に帰ると、可能性のなかった世界を取りもどそうと、しぶとく生き残っている、世界ができたときからあるような橋を渡る。