手にとって確かめられる種類のもの

僕は車に乗っていると傲慢になってしまうことを説明する
実家の自動車を手放すことになった。乗る人がいなくなれば、乗られるものはいらなくなる。
数えてみると3台もあった。本当にいらないのか、と叔父は僕にたずねる。
夏至を過ぎたばかりの空気は生ぬるく、照り付ける日差しのせいで僕たちは汗をかいていた。
ええ、もう必要ないです、もともと車はあまり好きじゃないから。僕は答える。
それでも、と叔父は言う。「広島に車が一台くらいあってもいいじゃないか。それにここは田舎だ。たまに帰ったときに車がないとなにかと不便だろう」と。「そもそもなんで車が好きじゃないんだ、説得してみろ。」

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優秀なる彼の、人生の幅

自分の人生の幅が見えた、と彼は言った。


彼はとても優秀だった。とても優秀であり、すこし孤立していた。彼はそういう種類の優秀さの持ち主だった。「はば?」と僕は訊く。そう、幅、と彼は答える。


『俺は自分が、一般的に見て優秀で、有能であると知っている。だけど俺の優秀さは2流のものなんだ。俺は本当の天才をみたことがある。大学にいたときによく一緒にいて、何年か話すようになってやっと打ち明けてくれた。「実は僕は天才なんだ」って。彼はその気になれば、どんな競技でも人並み以上にやれた。人並みどころか、いともたやすく、プロ以上になれた。俺が囲碁を教えると、その日の3局目で俺に勝ち始めるようになり、2ヵ月後に正真正銘のプロと打って勝った。』


それはすごい、と僕はとても間の抜けたあいづちを打つ。嘘みたいだ、と。彼は中学生のときから囲碁をたしなんでおり、とても強いと聴いたことがある。

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無邪気な人間

彼は無邪気だった。



彼のことを気に入った人たちは、彼が驚くほどの熱意をもって彼に執着した。
彼に対して、何度も「あなたが好きだ」と伝えた。
彼のことを気に入らない人は、彼の前でも平然と「あなたが嫌いだ」と言った。
彼に会うたびにその人たちは、何度でも「嫌いだ」と伝えた。



彼は自分のことを好きな人に対して「俺はそれほどあんたのこと好きじゃないけどね。」と言う。
そして彼のことを嫌いな人に対して、「俺はそんなにあんたのことキライじゃないけどね。」と言った。



彼は人から嫌われていたいのだ。

手紙

わたしが生きている間に、あなたがこの手紙を読んでいるということはないでしょう。だからわたしはもう、その世界にはいないのでしょうね。あまり苦しまずに死んだのならいいなあ、と思います。とは言え、今までの人生で苦しむことが少なかったので、死ぬ時まで苦しくなかったらそれはそれで悲しいと思ってしまいます。あなたと一緒に生活ができて、わたしは幸せだったと思います。

出鼻から話がねじれてしまってどうしようもないですね。ではこの手紙のことについて。あなたがまず一番知りたいだろうことを当てましょう。「なぜこのような手紙を書いていたのか」、そうでしょう?だけどそれは複雑な要素がからみすぎていて、一言であらわすことができません。一言で伝えようとすると、わたしの言いたいことが間違って受け取られてしまうでしょう。それは悲しいことだし、なによりもわたしの ― 今この文章を書いているわたしの気持ちの整理のためにも、ゆっくりと文章を読み進めていってください。

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がんばらないでいい、という思想

以前は「がんばりすぎないようにね」「がんばらなくていいよ」と人に言われても気にしなかった。最近はその言葉を聴くと、すこしつらくなるのを感じる。たぶん、自分が狭量になったんだ、と思う。

がんばらなくていいよ、という言葉で楽になれない。人に「がんばらなくていい」と言われると「いや、頑張るよ」と自分の中で確認し、「いや、頑張るよ」と口に出す。そういう僕を煙たがる人もいる。それでも僕は「いや、頑張るよ」と言う。これは自分にとっては重大な問題なんだ、と。

僕はむかしどこかで聴いたことのある話を思い出す。それは、こんな話だ。

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くだらない名前

なんで星座ってあんなにあるの、と彼女は訊いた。『だって多すぎて憶えられないうえに、くだらないものまであるじゃない。かみのけ座とか、さんかく座とか。私はあまり知らないけど、そういう名前を聴くだけで、疲れが湧いてくるような名前の星座があるでしょう。』


彼女はたしかに疲れているように見えた。それは彼女が20分前まで、自分の彼氏の愚痴をめいいっぱいしゃべったせいだ。僕はそう思う。彼女は自分のしゃべったことに対して疲れを感じてしまう人間だった。

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善人の世界で生きる人々

-まるで異国のようだ、と僕はおもう
まるで異国のようですね、と僕は隣にいる人に声をかける。彼はすこしのあいだ、自分に声が掛けられてることに気付かなかったが、すこしして『そうかもしれないです』と笑顔でこたえる。そうかもしれないです、この店に来るのははじめてですか、と。


そこは関東一円にあるラーメンチェーン店のひとつで、とにかく量が多くてあぶらっこくて、店がせまくて人口密度がたかい店だった。中にいる客はなにもせずに、ただ待っている。食べに来ているだけだから、それ以外のことはしないという哲学をもっているようだ。誰もが注文のときになると、ぼくには分からない種類のことばを並べた。にんにくやさいましましからめで。

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