手にとって確かめられる種類のもの

僕は車に乗っていると傲慢になってしまうことを説明する
実家の自動車を手放すことになった。乗る人がいなくなれば、乗られるものはいらなくなる。数えてみると3台もあった。本当にいらないのか、と叔父は僕にたずねる。
ええ、もう必要ないです、もともと車はあまり好きじゃないから。僕は答える。
それでも、と叔父は言う。広島に車が一台くらいあってもいいじゃないか、それにここは田舎だしたまに帰ったときに車がないとなにかと不便だろう、と。そもそもなんで車が好きじゃないんだ、説得してみろ。
僕はそれを聞きながら、頭のいい人だなと感じる。言葉の選び方に知性が透けていた。叔父はもともと中学校の教師をしており、その教師の組合の代表になっていた。とても昔にだが、そのように母から聞いたおぼえがある。もっと昔から話をしていれば、僕ももっと頭がよくなっていたのかもしれないのに、と意味のないことを考える。叔父としっかり話をしたのは大学を卒業し、広島を出て関東に行く理由を説明する時がはじめてだった。

叔父の話が終わる、今度は僕の番だ。考えを述べる。僕は手にとって確かめられる種類のものが好きなんです。道を歩いたり自転車をこいでいる時に感じるちょっとした勾配を見つけた時のおかしさや、まわりの景色になんの変化もなくなってふと空を見上げたときに気付く不思議な驚きが好きなんです。僕は車に乗っているとなんだか傲慢になってしまって、そういう手ごたえのようなものを忘れてしまう。だから好きになれません。

叔父は空を見上げ、じゃあ任せると言う
叔父はまわりの山を見渡して、僕の言葉をなぞるようにすこし空を見上げた。それは古い考え方だな、と太陽の光を手で遮りながら言う。あいかわらず頑固で独りよがりではあるが、お前らしい。でもそれだけの理由だと説得できないことが世間にはある。
僕はあきらめて言う。税金だとか車検のことを考えたら、年に何度帰ってくるか分からない場所に車を置くよりもレンタカーを使うほうが安いです。それに車は定期的に乗らないとすぐに調子が悪くなりますから。
叔父はうなずき、そうだったな、じゃあ任せると言った。僕はでもそうじゃないんだ、と言いたかった。古い考え方だろうが、時代遅れのファッションだろうがそれが僕の好きなものなんだ。
もちろん叔父はそのことを知っていたのだろう。彼だけの世界ならば、僕の考え方が時代遅れで倒壊寸前でもたぶん気にしないだろう。それは分かっているので僕はなにも主張せず、ただもうすぐなくなる車のボンネットに手をおいて、太陽のあたたかさを確かめた。