彼女の使命感

本当になんにもおぼえてないんですね、と彼女は言った。
はじめて卵が孵化する瞬間をみた子どものような表情をつくりながら、あけっぴろげにそう言った。もともと感情表現が豊かなのだろう。その表情には何度もおなじ動作を繰り返してきたような自然さと、その表情に対するかすかな自信がみえた。
「うん、そうだね、あまり何もおぼえてないとおもう」と僕は言う。「もともと物事をおぼえないタイプだし、最近は無理におぼえようと思わないから。」

彼女はそうかあ、というメッセージを的確に簡潔な表情で伝え、うなずく。
彼女とは昔の職場にいた先輩の企画したコンパで会った。僕の現在の職業は時間に都合がつきやすく、僕がその気にさえなればという条件付きで好印象を与えることができるらしいので、職場での付き合いがなくなったあとでもそういう場に誘われることがあった。
その時はいつもどおりにしゃべって、飲んで、別れた。ただ今回はめずらしくその中の一人と、もう一度会って話そうということになった。そしてもう一度会ったとき、5分くらいで「本当になんにもおぼえてないんですね」と言われる。

5日ぶりに彼女と会った僕は、全員の名前をおぼえてないのはもちろん、そのときにどんな発言があって、どんな話をしたかも忘れてしまっていた。それに対して、彼女は接客業をしているせいか、僕たち全員のことをしっかりと覚えていた。全員の好きな食べ物まで記憶していて、僕を驚かせた。

彼女は言う。「この前話したときはそういう人だと思わなかったなあ。別に非難してるわけではないですよ。」
僕は言う。「猫をかぶってたから、得意なんだ、わりかし、大丈夫、非難してるわけじゃないのはわかる、でも生きてるだけでおぼえることってたくさんあるでしょ?脳ミソがミンチみたいになるまでシワが増えても足りないくらいたくさん。」彼女はうなずく。
僕は続ける。「そうするとどこかで息抜きが必要になる。そしてその息抜きが僕にとっては、あの空間であり時間。あそこでは何も期待しなくてもいいし、何も期待されなくていい。そういう場所で、どうして何かをおぼえなくちゃいけないんだ、っておもう。」


彼女は笑顔を保ちつつ、アルコール度数が強いカクテルを飲んだような表情をした。そしてこたえる。
「たしかにそうかも知れない。ああいう場でなにかを期待したり期待されたりするのは、たぶん正解じゃない。けど、間違いでもないんじゃないかな。私は知らない人を前にすると、この人はどんな歴史を持っているんだろう、ってワクワクするんです。この制限時間をつかって、どこまでその歴史を追っていけるかって使命感すら抱くことがあります。」

僕はその、使命感という荘厳な響きと、彼女の使命感の行き先について思いを巡らせた。その落差に笑いながら、うん、そうだねと言う。そういう考え方もあるよね、と。そして僕はそういう人が嫌いじゃないとおもう。口には出さないけれど。

僕の使命感は彼女の使命感とは別のところにあるし、彼女とはそれきり会っていない。これからも会うことはないかもしれない。ただ、どこかで立ち話でもする機会があればいいな、とおもう。二言三言交わして、こう言うのだ。

今でも、あなたと、あなたの使命感はおぼえてる。





ANTLERAND - "Now It's A Year"